OMC 大阪ムービーサークル OMCの沿革

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クラブの創成期

戦前の昭和14年(1937)に竹本正光氏(故人)が16mm、8mm の愛好者を集めて、不定期に会合を開いて楽しんでいた。
その後戦争で中断、戦後は昭和21年(1946)に復活し同好の人も増えて、クラブとして正式に発足し定期的に会合を持つようになった。
その後、玄光社(現”ビデオサロン”の発行元)の全国小型映画友の会組織に第8番目のクラブとして加盟、会の名称も「大阪南支部」となり、それが「大阪ムービーサークル」と併称するようになり、略称「OMC」が定着した。
今日では、玄光社の全国小型映画友の会組織も解散したので、「大阪ムービーサークル」、略称「OMC」が継続しているわけです。
戦前、同好の人達が集まって映画作りを楽しみだしてから60年を越えました。
クラブニュースを会報として、正式に発行し始めたのが昭和39年(1964)です。
いずれにしても先人達が営々と築いてきたクラブである。

苦難の時期

しかし、クラブの発展は順風満帆ばかりではなかった。ホームビデオ機器の登場と発展にもかかわらず、OMCは8ミリフィルム映像にこだわり続けた。なかでも発色に定評のあるコダクローム愛用者が多く、多くの会員はビデオに手を出すのが他のクラブにくらべて遅れた。そのためビデオに転向した会員は、会を退会していき会員数の減少(20名を割り込む:例会出席者は10数名)で、経費面からクラブの存続が懸念されるようにもなった。しかし残された数少ない会員は、この伝統ある名門クラブの灯を消してはならないという心意気では一致していた。

この時期には、8ミリフィルム映像の衰退はさらに進展していた。平成5年10月(1993)には、コダックが日本国内での現像を中止した。同じくフジフィルムもサイレント・シングル8フィルムへのマグネストライプ加工を中止した。コダックの国内現像中止は、OMC会員にとって大ショックであった。折角撮影してもハワイへの現像送りで、出来上がりまで2ケ月近くはとても待てないといことで、フィルム映像をあきらめ、ビデオ映像へと大多数が転向していった。

平成6年1月例会からは、ついに8ミリフィルムとビデオを併用し、例会が運営されることになった。この前後がOMCにとって、一番苦しい時期であった。会員減により会の苦しい台所を救うために、会員有志で寄付を出したりした。また会費が年間2万円になっていた(現在は年会費1万円)。会員減は当然の結果として、例会の新作出品が減少し、旧作リバイバル上映が多くなっていた。そのため会の活動も低調で、却って会員数が減るという悪循環に陥っていた。

復活へ

このような凋落を食い止めるために、平成8年1月に心機一転会場を民間のホテルから、大阪市の施設へ移し会場費の節約を図った。同時に8ミリフィルムと決別し、ビデオ映像に一本化すこととなった。会の名称は、今後は二度とフィルムを使用することはないので、”ムービー”の文字はそぐわないのではという意見もあったが、60数年の伝統の重みを考え「大阪ムービーサークル」をそのまま引き継ぐことにした。
一方ビデオ化に遅れたOMCに愛想をつかして離れていった元会員に復帰を働き掛けるとともに、ビデオサロンへの活動を掲載、施設(大阪市あべの市民学習センター)でのチラシ配布等、新会員の募集に注力した結果会員数も徐々に増加し、例会には常時に20数名が出席し上映本数も新作10数本以上で会の活気も盛り上がってきている現状である。